てんてんの部屋 東海道新居宿 ふるさと再発見
湖西市新居町の史跡
新居関所(今切関所) 渡船場跡
新居関所(今切関所)は、慶長5年(1600)に設置され、初めは現在「大元屋敷」と呼ばれている今切口の近くにありましたが、元禄12年(1699)8月15日の津波災害で、関所大門から東側の宿場が流されたので、そこから500メートル西へ行った辺りに移転しました。(「中屋敷」と呼ばれる)
ここも宝永4年(1707)10月4日の大地震で関所、宿場が流され全滅し、関所、宿場全体が現在地に移転しました。
全国で唯一現存する関所建物です。
宝永4年(1707)10月の地震後、今切れの渡し舟を係留した所。
関所のすぐ横が船着場であった。
旅籠紀伊国屋 小松楼
寄馬跡 船囲い場跡
街道に要する人足や馬が近隣より寄せ集められた場所。
一里塚 棒鼻跡
江戸の日本橋を起点として街道の一里(4キロメートル)毎に土を盛り、その上に樹を植えた道のしるし。
旅行者にとっては馬や駕籠代の計算などの目安となった。
ここには左(東)にエノキ、(西)に松が植えてあった。
新居宿の境。一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。
大名行列が関所に向かう時、ここで先頭を棒先で整えたから棒鼻と呼ぶようになったといわれる。
風炉の井 北屋敷跡
建久元年(1190)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの水を茶の湯に用いたと伝えられる。
現在は埋まってしまい、底が見える。
新居町奉行所跡 平次ヶ谷
御殿跡 大元屋敷跡
一番最初に関所と宿場があった所。
関所から西へ一本道の街道に城町、中町、西町と作られた。
西町の入り口は曲手(かねんて)になっていた。
これは現在の西町にもみることができる。
関所の北側には広い土地があり、八兵衛、七兵衛と言う兄弟が住んでいた。
現在の、潮干狩り場の八兵衛瀬である。
タカボタ地蔵 女屋跡
浜名橋跡 紅葉寺跡
橋本に流れる浜名川に架けられた長さ170m、幅4mの橋で、最初は貞観4年(862)に造られたそうですが、災害により10数回架け替えられたそうです。
平安時代、幾度と和歌に詠まれ、とても景観の良い場所だったようです。
正式名は本学寺で、建久元年(1190)源頼朝が上洛のおり橋本に宿泊、そのとき寵愛を受けた橋本の長者の娘が後に出家して妙相と名乗り、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたといわれている。
足利義教が富士歴覧の途中、この寺に立ち寄り、紅葉を称賛したので, 以来, 紅葉寺と呼ばれるようになった。
立場跡 明治天皇御野点所址
旅人や人足、駕籠かきなどが休憩した所。 明治元年(1868)9月20日、岩倉具視などを従え東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向う途中に休憩した場所。
明治天皇一行はその夜、新居宿飯田本陣に宿泊し10月13日に東京に到着した。
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